菜々子の生活記録と戯言

かなり適当な言葉に言葉を連ねる住処

好き嫌いという感情

誰しもが一度は抱いたことがあるかもしれない。好き嫌いという感情。

わたしにもそれはある。そう思っている。

 

だが、どういうわけかわたしには他人に対しての感情が抑圧されている気がしてならない。湧き出そうになった感情が、アイロンで平たくされるような感覚を何度も何度も、何度も味わってきた。何度も。どれくらい? どの程度? いつから?

モノに関しては体が拒否反応を起こす程度でなければ、なんでも受け入れる。

 

例えば仲のいいAさんという人がいて、その人に対して何がしかの感情をもてない。

誰に対しても同じ対応をしてしまうわたしには、誰が特別というものはない。まあ、人間というのは不完全なものであるためそれに反することもある。

仲がいい、親しい、そういった概念を理解していないのだろう。そのため、これまでの人生において他人との距離感を見誤る場面が数えきれないくらい存在している。見誤ったことに気がつき、また間違えたと認知し、後悔する。この繰り返しをひたすら続けているわけである。

 

ようはわたしは他人に対して好き嫌いの感情をもてない。どんな相手であっても同じ対応、同じ見た目で接してしまう。

いいか悪いかということではなく、端的に言えば苦しい。『六条菜々子』という存在で生きている。

 

素の自分という言葉があるが、これが分からない。なぜなら、どれが本当の自分なのかが分からない、理解していないからだ。

さらに言えば、どれも本当の自分ではない気がしてたまらない。自分たちという複数が連なったなかに、わたしがいる。そんな感覚なのだ。

あまりに抽象的で呆れてしまう。

 

これは余談だが、わたしはこの現実を受け入れたつもりでいた。しかしどうだろう。錆びた蓋を開けて覗き込んで見ると、また別の蓋が見えてしまったのだ。

受け入れることが、できていなかった。そのことに酷く絶望してしまった。

『自分のことは自分が一番理解している』

その夢物語は、わたしの意識に深く刺さってしまった。そんなわけがないと反論を文字に起こして書いたのは、さていつのことだっただろうか。